過剰生産社会+余暇時間のうみだす構造的不安

きのう、フェイスブックにかいた、おぼえがき【少々修正】。
知人むけにかいたので、少々、差別的で乱暴な表現がまじっているので、注意。


自転車操業的経済原理に限界があることは、みえはじめたとおもう(というか、何十年もまえから、文明論的には、かたられてきていた)。でも、ゲームからおりられない(と おもいこんでいる)のが、経済先進地域の住民だとおもう(人口集中地だけではない)。ナウシカをはじめとする、SFファンタジーの基調が世界大戦以後になっているという世界観はすでにふるくて、世界人類の社会的崩壊は、生産・消費・廃棄システムの機能不全でおきるとおもう。
■しかし、こういった議論の整理をおこなってきて、おおくの論者が なぜか みおとしている論点がいくつかあるような気がしてならない。
■たとえば分配の問題。大量消費・大量廃棄というムダが指弾されてきたけど、問題の根幹は、大量生産技術がもたらした過剰生産と分配の機能不全/不正義という点につきるのではないか? ■たとえば、アメリカの アタマがわるそうな市民のように、ぶくぶくふとってしまっている市民たちだって、過食症として、大量生産技術の犠牲者とみられなくもない。かれらは、まともな消費生活をおくるだけの精神をうしなってしまって、依存症的にストレス解消をエネルギー摂取ではたしているはずだ。■一方で、内戦地域周辺とかでおきる飢餓という、極端な物資の分配状況。■失業者の問題なども、結局は、巨大市場が、もはや 「おなかいっぱい」といって、購買欲求をへらしているから。中国など新興国だって、そのうち「満腹」してしまうにちがいない。「消費者にかってもらえる新製品を」「同業他社にまけない商品開発を」をいうんだが、結局、過剰生産なんだとおもう(書物の刊行だって、基本的にはそうだ)。過剰生産が基調だから、労働力もあまってしまう。大量生産できるシステムは、ますます労働力をすこししか、ほしがらない生産体制なのだから。
■もうひとつは、過剰生産も過剰消費も、自己確認という社会病理の産物だろうということ。なにも、投資家たちが悪魔のように私腹をこやそうと暗躍しているから、過剰に消費するようしくまれているというのではないとおもう。過剰な物質・サービスにとりかこまれることで、経済先進地域の住民は、ますます不安にとりつかれ、不満足な日常をおくっているのだ。「たることをしる」という人生観をすてさって、「なにかものたりない」という意識にとらわれる。前項でのべたとおり、「満腹」状態なので、市場が活性化するほどには、かう気になれないし、実際購買欲求はさほどではないのだけど、過食症と同様、かわずにはいられないのだ。実は、「新商品」とは、「満腹状態」でも、不安解消のために、つめこまずにはいられない層がとびつく商品群なのであって、本当に必要な商品である保証などない。「なにかものたりない」という意識にとらわれる不安な市民をとびつかせる商品こそ、企業が必死に「開発」にとりくんでいるものなのだ。
■そして、このふたつを あわせて もたらされる仮説は、「ひとびとは、過剰生産によって不安につきうごかされ、過食症的消費をせまられている。そして大量生産システムは、モノの生産時間からの『解放』をもたらすので、意識的にスポーツなどをしないといけない(肥満になったり、不安になったり)心身においこまれる。それは、ヒマという、おそるべき不安とのたたかいでもあり、ひとびとは、時間を浪費する(ヒマつぶし)ために商品をかいこみ・利用する。実は、過剰なものでみたされている児童と退職者たちの生活は、現代消費社会の矛盾の凝縮した時空といえる。」「断捨離とか、ゴミおばさんとかといった現象は、こういった異様な過剰社会の縮図である。」