新刊『日本史を精神分析する』(岸田秀,ききて・柳澤健)



日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論


内容紹介

なぜ日本は対米従属の軛を脱することができないのか。
混迷の色を深める日中・日韓関係のゆくえは。
日本の歴史を精神分析することで、「自分たちはどこに立っているのか」「なぜ日本はこうなのか」がくっきりと見えてくる。最良の聞き手を得て、岸田秀が日本の諸問題を縦横に語る。

著者紹介

岸田秀(きしだしゅう)
精神分析者、エッセイスト。1933年生まれ。早稲田大学文学部心理学専修卒。和光大学名誉教授。『ものぐさ精神分析 正・続』のなかで、人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない、とする唯幻論を展開、注目を浴びる。著書に、『ものぐさ精神分析』(青土社)、「岸田秀コレクション」で全19冊(青土社)、『幻想の未来』(講談社学術文庫)、『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)など多数。

柳澤健(やなぎさわたけし)
1960年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。文藝春秋に入社し、「週刊文春」「Number」編集部などに在籍。2003年に退社し、フリーとして活動を開始する。2007年にデビュー作『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)を上梓。著書に『1964年のジャイアント馬場』(双葉社)、『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(文藝春秋)、『1974年のサマークリスマス』(集英社)などがある。

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■いただきもの。
■『社会学のまなざし』で『ものぐさ精神分析』を紹介したとおり、20代に深刻な影響をうけた10冊のひとつといってさしつかえない作品だった。■本書も、なかなか参考になる指摘が満載なようだ。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ミーム(R.ドーキンス)がヒトの大脳に寄生し、具体的なヒトの言動(身体)を媒介して伝染していくというモデルからすれば、集合的な記憶(集団心理的な共通部分)が共同幻想として長期にわたって継承されていくというプロセスは、「幻影」でも「妄想」でも、なんでもない。無数の「言語」が伝染してきたように、無数の「共同幻想」「歴史イメージ」が伝染してきたと把握するのは、なんら非科学的ではない。■そして、この生物心理学モデルは〔ドーキンスが 遺伝子(gene)をすぐれて擬人論的なモデルでしめしたのと まったく同形で〕「ミーム」自体が あたかも自己意識をもつかのような主体として擬人化したことになる。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

■岸田さんが提唱してきた「共同幻想」論は、社会構築主義社会学者たちが無視しなかったように、きわめて社会学的である。

フィクションとしての社会―社会学の再構成 (SEKAISHISO SEMINAR)

フィクションとしての社会―社会学の再構成 (SEKAISHISO SEMINAR)

■ただし、岸田「共同幻想」論を構築主義的な社会学と同質だと錯覚してはならない。岸田さんの史観は、近代の特殊性をかけらもみとめていない点で、社会心理学や宗教人類学的な仮説群であって、近現代の社会変動(世襲身分原理の崩壊→自由主義原理)に本質をみいだす社会学とは、根本的な断絶があるのだ。■また、集団をあたかも一個人になぞらえることができるかのようにあつかうこと(具体的人間集団自体の擬人化=主体化)に疑問をもっていない点で、「集合心理」といった実体視に警戒的だった社会学と異質である。■もちろん、社会心理学などが実証研究によって確認してきた具体的同調圧力とか風聞やイメージの伝染や、集団間で共有されてしまう錯覚(周囲のみんなが信じていると、信じてしまう構成員etc.)などのような緻密なミクロ解析をつみかさねるような慎重さはない以上、解釈が往々に恣意的になりがちであるなど、疑似科学的色彩がぬぐえないのである。
■こういった恣意的解釈の典型例は、たとえば「原型・古層・執拗低音」(丸山真男)や、それをしたじきにした「日本文化=中華辺境文化」論(内田樹)などにも通底する地政学的宿命論であり、大衆的人気をもってきた。いわく「大陸文明から適度な距離があるがゆえに、適当な取捨選択と土着化によってガラパゴス化がつづく」といった、日本独自(特殊)論である。■これらの議論は、広義の「共同幻想論」という「共同幻想(メタ共同幻想)」である。それは、決して「反証可能性」(K.ポパー)をみたす仮説群としては整理されず、恣意的に選択された歴史的事項を、きれいに説明したかのように「物語」化することに終始する疑似科学というべきだろう。■岸田氏をこばかにする知識層はおおいのだが、同様な非難/批判を、丸山/内田両氏があびたというはなしは、寡聞にしてみみにしない(単になまけものゆえの不勉強=無知にすぎないかもしれないが。田口富久治「丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」」etc.)。
■たとえば、「日本民族」という集合体としての実体が成立するのは、せいぜい19世紀末あたりからであり、それ以前は「日本人」というアイデンティティーを共有していない。もちろん、自覚などなくても無自覚に「共同幻想」が伝染し共有化されていたと主張されるだろうが、それを立証する文献を列島中から収集することは、それこそ物理的に不可能だろう。むしろ、可視光線周辺がグラデーションをなしながら、紫外線/赤外線周辺の両端を同色といえないように、本州の南北両端に通底する「日本史」意識などなかった、という文書の発見の方が確率的にたかい。ドイツ語圏がドイツ人というくくりで境界線を確定できないのが、ヨーロッパ大陸の本質であるのと同様、連続体としての広義の日本語話者をつごうよく日本語人/日本民族として、とりだすことはおそらくできない。地理的にはもちろん、歴史的には連続性の確認がさらに困難になる。「日本人」意識のひろがり/定着が本州周辺に確立するのは、19世紀末以降であり、それ以前に歴史的偶然が介在すれば、全然ちがった国境線がひかれ、現在とはまったく異質な人間集団同士が共存対立していたかもしれないのである。「日本人」意識は、公教育/徴兵制/日刊紙をふくめた出版資本主義が複合的に作用して定着した。植民地だった北海道や小笠原や琉球列島にも、一応定着した。■これらの社会的事実=歴史性を教育社会学的に指摘したのが『「日本」というイデオロギー』であり、その続編が『日本人という自画像』などだった。
イデオロギーとしての「日本」―「国語」「日本史」の知識社会学

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日本人という自画像―イデオロギーとしての「日本」再考

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幻想としての人種/民族/国民―「日本人という自画像」の知的水脈

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社会学のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

社会学のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

■ただし、すくなくとも岸田氏の議論は、欧米の帝国主義の本質とその無自覚性については相当妥当である。植民地主義レイシズム、世界大戦やベトナム戦争など18-21世紀の蛮行の大半をスケッチできるといっても過言でないとおもわれる。不可解としかおもえない戦後日本の対米追従姿勢の集団心理なども同様だ。