2014年度社会学B第15回(最終回)での質問等への回答(随時追加)

◇質問1「社会学Bの講義の中で挙げられた多くの参考文献,参考図書,課題図書の中で,特に社会学という学問と結びつきがある,強く関連している本は何だろうか?」

■まず、社会学社会心理学者がかいた文献は、基本的に社会学的関心ないしは社会学的分析手法から記述されています。そういった文献として、つぎのようなものを紹介しました。
森下伸也『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』
好井好明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』
岡田朋之ほか『ケータイ社会論』
浅野千恵『女はなぜやせようとするのか―摂食障害ジェンダー
加藤まどか『拒食と過食の社会学
大野道邦ほか『身体の社会学
内田 良『柔道事故』
粟屋 剛『人体部品ビジネス 「臓器」商品化時代の現実』
上杉正幸『健康病 健康社会はわれわれを不幸にする』
デボラ・ラプトン『食べることの社会学―食・身体・自己』
デイヴィッド・ライアン『監視社会』
ジグムント・バウマン『液状不安』
ジョン・G・ラッセル『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』
デニス・アルトマン『グローバル・セックス』
パオロ・マッツァリーノ反社会学講座』『13歳からの反社会学
ジョエル・ベストほか『なぜ賢い人も流行にはまるのか―ファッドの社会心理学

■関連する文献として、テキストでもたくさん紹介した、社会学的文献があります。これらは、社会学者が執筆しても(表題はことなるでしょうが)不自然でない一般書です。
ティーヴン・D・レヴィット『ヤバい経済学』
西内 啓『統計学が最強の学問である』
神永正博『不透明な時代を見抜く「統計思考力」』
門倉貴史『統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか』
本川 裕『統計データはおもしろい!』
久保 大『治安はほんとうに悪化しているのか』
森 健『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?
     情報化がもたらして「リスクヘッジ社会」の行方』
後藤和智『「若者論」を疑え!』
中島 梓『コミュニケーション不全症候群』
高倉正樹『赤ちゃんの値段』
デボラ・L・スパー『ベビー・ビジネス―生命を売買する新市場の実態』

■ほか、社会学周辺の学問領域、社会学者がネタとしてあつかって不思議でないテーマ、つかって当然の手法などの紹介をしました。

■おもえば、かなりの量の文献やURLを紹介したものです。■しかし、テキストの『社会学のまなざし』にとどまらず、ましこの著作物は、読書ノートのような性格があり、同時にそれは、読者への読書案内という意味での文献リストをともなってきたといえるでしょう。


※ ■出席票をあつめないかわり、出席者が不利にならないよう質問票等を回収し(出席点としては換算しないけれども、期末の救済措置などに利用)、ミニレポートやボーナス課題は板書のみとしてきました。■実は、ボーナス課題用に紹介した文献やウェブページは、記録をとっていません。板書したものを何枚か写真にとってデータはありますが、全部ではないからです。講義日のあさ、おもいたった文献を10点前後カバンにつめ、それに関連文献をくわえて紹介しているからです。
■ボーナス課題がそもそも計画的にカリキュラム内にくみこむべく用意されたものではなく、単位認定上の救済措置だし、カリキュラム内部での文献紹介なら、テキストの『社会学のまなざし』に無数の参考文献が紹介ずみです。授業でのはなしで興味をもったものを、各自よんでいけばいいわけです。したがって、ボーナス課題で紹介する文献は、授業時の質問からながれで話題にのぼったネタ周辺からえらばれるということになります。




◇質問2「『社会学のまなざし』や他のましこの著作で挙げる話題には,何か基準やきっかけがあって書いているのだろうか? 単純に,書きたいと思ったことを話題として挙げている場合が多いのだろうか?」

■まず、大学テキストとして意識してかかれたものは、
・『社会学のまなざし』
(2012,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/311.htm
・『幻想としての人種/民族/国民』
(2008 http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/224.htm
・『あたらしい自画像』
(2005,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/154.htm
・『たたかいの社会学
(2000/2007,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/212.htm
があります。
■これは、社会学部など、「社会学」周辺を専攻する学生ではない、多様な受講生を前提にして、学生の関心のたかそうなテーマをとりあげています。スポーツや闘争、セクシュアリティジェンダー、そしてナショナリズムレイシズム、排外主義などがとりあげられたのは、複数の学部にまたがる受講生をイメージしたこと、いわゆる国際化など時事的な関心事に対応しようとしたものです。■もっともあたらしい『社会学のまなざし』は、出版社の企画によってうまれたものですが、学説史などを割愛し、総花的なバランス重視のテキストがおおいなか、グローバル化とその前史、心身の現代的変容という2本の軸にしぼりこんだものですが、『あたらしい自画像』(2005年)の直系・後継というべきテキストです。
■もちろん、これらテキスト群も、単なる、各年度の具体的授業だけをイメージしただけの産物ではありません。「知識社会学」という分野を具体的にになっているという自覚があって、その基盤にそって、社会学周辺の問題意識・手法をサイエンスライターとして提供しようという姿勢をもっています。■その主要な方法論として、社会言語学/教育社会学/カルチュラルスタディーズ/障害学などを意識しつつ、さきほどあげたスポーツほかのテーマ群以外に、言語現象/教育現象/暴力・差別・嫉妬などを解析し、また社会学が方法論上の課題としてきた、秩序問題(「自由主義」のなかで、奇妙に反復・維持されるパターン)に読者を着目させて、近現代の独自性・特異性を再認識してもらうことがめざされてきました。
■よってたつ社会言語学/教育社会学/カルチュラルスタディーズ/障害学など、主要な方法論は、学部/大学院浪人時代、大学院時代、研究員/就職浪人時代に、徐々にくわわっていき、それらのほとんどはすてられずに地層化し、時に地上化して融合されて、現在の問題意識につながっています。■たとえば、現在の科学研究費助成金の課題「情報弱者のかかえる諸問題の発見とメディアのユニバーサル・デザインのための基礎研究」などは、問題関心の一部にすぎませんが、方法論と関心領域の集約ともいえます。これら共同研究のなかまは、『社会言語学』(2001年〜,14号+別冊1)という同人誌的学術雑誌につどう「情報保障研究会」のメンバーたちです。
■これらのテキスト類に直接でてこない問題意識は、
・『ことばの政治社会学
 (2002/2014,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/367.htm
・『知の政治経済学』
 (2010,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/266.htm
・『日本人という自画像』
 (2002,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/100.htm
などにおさめられています。■そして、それらの源泉たる大学院時代+研究員時代+浪人時代(1987-1999)の問題意識の一部は、博士論文(http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=112313)をもとにした『イデオロギーとしての「日本」』(1997/2003,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/122.htm)にまとめられています。本書は、国語科・地理歴史科など学校教育が国民国家による洗脳装置であり、国家が事実上内容に介入してきた検定教科書はもちろんのこと、学習参考書や一般書にいたっても、国民各層に求心力をもたせようという、無自覚なナショナリズムの産物だという批判を展開したものです。
■その意味でいえば、近年の『愛と執着の社会学―ペット・家畜・えづけ、そして生徒・愛人・夫婦』(2013,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/341.html)や、『加速化依存症―疾走/焦燥/不安の社会学』(2014,http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/359.html)などは、従来の問題意識とはかなり異質なテーマ群です。■社会学は、歴史的な事象をあつかったりしないかぎり、基本的に現代社会論なのですが、この2点は、明確に現代社会論といえるでしょう。これは、社会学から縁どおい一般読者に、社会学的な視座を提供しようという、テキストと並行したサイエンスライター的姿勢の産物です。




◇質問3「社会学Bと比較して,社会学Aは各週のテキストでの該当ページの違いという点以外で,講義内容に関して何か違いはあるのだろうか?」

■ましこが中京大学で担当する全学共通科目のなかで、社会学A(前期)はグローバル化マクドナルド化など経済構造に着目し、現代社会における心身のありようが初期近代や近代以前とどう変容しているかに着目する社会学B(前期)と、対照的な構成をとっています。
■ただし、初期近代や近代以前と現代社会とが、どう異質なのかという点は、基本的に問題意識がかさなっています。たとえば、自由主義/競争原理のもと、自己責任の論理で放置されている(一応強制力をともなった法的規制はあるものの)現代で、なにゆえ、奇妙な秩序が維持され、同様なパターンがくりかえされるのか、という、近現代の独自性=身分秩序が崩壊したアナーキーな空間での不思議な現実に着目すること、それが老若男女など生物学的属性だけではわりきれない、予測可能性をおびている点への注目が共通の問題設定となります。■そして、微視的・短期的には、ほとんど同一パターンの反復が観察されるけれども、10年20年とたつと、あきらかな変動とか、めだたたないけど結構重要で深刻な次元での変容が観察できるといった、微視/短期と、巨視/中長期という、ふたつのことなる視座への着目も、前記/後期にかかわりなく、共通の目標ですね。すくなくとも、2015年度には、変更されないとおもいます。





◇質問4「『社会学のまなざし』p.177〜,回路番外編として,ジダンの頭突き事件が挙げられているが、この問題は社会学Aで取り上げられるのだろうか? もしくは,説明はあるのだろうか?」


■「ジダン頭突き事件」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%B3%E9%A0%AD%E7%AA%81%E3%81%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
は、「回路番外編」とあるとおり、基本的には「おたのしみ」といったあつかいです。■したがって、シラバスにいれない可能性がたかいとおもいます。時間にユトリがあったらといった感じですね。■もちろん、学期冒頭で、たってのご要望として提案があれば時間を確保しますが、個別対応で、授業の前後、ないしメールで質問してもらうのが、おたがいにローコストかとおもいます。
■ちなみに、2014年度は、諸般の事情でイレギュラーな形態となり、名古屋キャンパスでの社会学A/Bを、ましこが担当しませんでしたが、2015年度は、名古屋キャンパスで水1/木1-2、豊田キャンパスで木4という担当と、また激変します。





◇質問5「『社会学のまなざし』や他の本でも、よくマクドナルドの話がでてくるが、何か思い入れがあるのか。また異物混入についてどう思うか。」

■誤解があるようですが、『社会学のまなざし』では、マクドナルド化というサービス業界で広範に観察される現代的構造を紹介・解析しているわけで、マクドナルド社の具体的サービスをうんぬんする気はありません。それは『社会学のまなざし』をうけてかかれた『加速化依存症』でも同様で(2-4 マクドナルド化の普遍化)、マクドナルド社に特定して議論をすすめることはさけています。サービス業界での人材育成の「促成栽培」ぶりについても、マクドナルド社が突出していることはともかく、ドミノ・ピザや、Amazon.comなどの宅配サービスなどに言及しているように(『加速化依存症』pp.57-9)、むしろ進行中の普遍的構造に焦点があたっているのです。■この点については、年内に議論をふかめて、テーマパーク(ディズニーリゾートetc.)やコンビニ業界なども関連づけた本をかきはじめているので、そちらにゆずりたいとおもいます。
■一方、マクドナルドなど外食チェーンや、カップめんなど、食品への異物混入が社会問題化していますが、ここでは、一般論をのべるにとどめます。
(1) コンピューターのプログラムからバグを完全消滅させるのと同様、食品加工の最前線から異物混入という物理的リスクを完全消滅させることは不可能である。つまり、リスク対策として、それを例外的少数といっていい程度まで減少させることと、深刻な事態(食中毒や口腔内のケガetc.)に絶対にいたらないような危険回避策に万全を期すという改善策を入念に検討し、現場に徹底させていくしかない。
そのためには、労働災害の発生メカニズムを社会疫学的にモデル化した「ハインリッヒの法則にならい、「事故」化した事例の背後で多数発生しているはずの「ヒヤリ・ハット」※※を細大もらさず聴取・記録・検討し、重大事故はもちろん、軽微な事故さえもほとんどおきない水準まで危機管理を徹底していくことになる。人命をあずかる旅客業や医療など公共的事業では、実際それがおしすすめられている。
(2) そういった物理的・工学的なリスク対策とは別に、利用者の苦情・報告などへの対策を別にたてることが、企業や公共事業にはもとめられる。要するに、問題発生をもみけすのではなく、苦情をもうしてた利用者がなっとくする対応をとること、苦情がそれ以降発生しないような改善策をとったことを利用者本人に通知するのみならず、問題発生の事実を適宜公表すること。


ウィキペディア「ハインリッヒの法則」
ハインリッヒの法則 (ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law) は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。「ハインリッヒの災害トライアングル定理」または「傷害四角錐」とも呼ばれる。

法則名はこの法則を導き出したハーバート・ウィリアム・ハインリッヒ(Herbert William Heinrich)(1886年 - 1962年)に由来している。彼がアメリカの損害保険会社にて技術・調査部の副部長をしていた1929年11月19日に出版された論文が法則の初出である。
彼は、ある工場で発生した労働災害5000件余を統計学的に調べ、計算し、以下のような法則を導いた。「災害」について現れた数値は「1:29:300」であった。その内訳として、「重傷」以上の災害が1件あったら、その背後には、29件の「軽傷」を伴う災害が起こり、300件もの「ヒヤリ・ハット」した(危うく大惨事になる)傷害のない災害が起きていたことになる。
更に、幾千件もの「不安全行動」と「不安全状態」が存在しており、そのうち予防可能であるものは「労働災害全体の98%を占める」こと、「不安全行動は不安全状態の約9倍の頻度で出現している」ことを約75,000例の分析で明らかにしている(詳細はドミノ理論参照)。なお、ハインリッヒは「災害」を事故と事故を起こさせ得る可能性のある予想外で抑制されない事象と定義している。
上記の法則から、
事故(アクシデント)を防げば災害はなくせる。
不安全行動と不安全状態をなくせば、事故も災害もなくせる(職場の環境面の安全点検整備、特に、労働者の適正な採用、研修、監督、それらの経営者の責任をも言及している)。
という教訓を導き出した。 この法則は、日本の国鉄(現・JRグループ)にも影響を与え、「330運動」と称する運動が国鉄時代に存在した(現在同じように現場において実行されているかは公表されていない)。
〔……〕

※※ウィキペディア「ヒヤリ・ハット」

ヒヤリ・ハットとは、重大な災害や事故には至らないものの、直結してもおかしくない一歩手前の事例の発見をいう。文字通り、「突発的な事象やミスにヒヤリとしたり、ハッとしたりするもの」である。

ヒヤリ・ハットは、結果として事故に至らなかったものであるので、見過ごされてしまうことが多い。すなわち「ああよかった」と、直ぐに忘れがちになってしまうものである。
しかし、重大な事故が発生した際には、その前に多くのヒヤリ・ハットが潜んでいる可能性があり、ヒヤリ・ハットの事例を集めることで重大な災害や事故を予防することができる。そこで、職場や作業現場などではあえて各個人が経験したヒヤリ・ハットの情報を公開し蓄積または共有することによって、重大な災害や事故の発生を未然に防止する活動が行われている。
このような活動は、ヒヤリ・ハット・キガカリ活動とも呼ばれる。ハインリッヒの法則は、「重大事故の陰に29倍の軽度事故と、300倍のニアミスが存在する」ということを示したもので、この活動の根拠となっている。

医療現場におけるヒヤリ・ハット

一件の重大なトラブル・災害の裏には、29件の軽微なミス、そして300件のヒヤリ・ハットがあるとされる。詳細は、ハインリッヒの法則を参照のこと。
医療におけるヒヤリ・ハット(英語ではMedical incidentと呼ばれる)は、医療的準則に従った医療行為が行われなかった(人的なエラーが発生した)が結果として被害(不利益)が生じなかった事例に使われる。看護学においても、普及した言葉である。また、厚生労働省が発表する「リスクマネージメントマニュアル作成指針」にも定義されている。〔……〕




◇質問6「人間が今まで進めてきてしまった超合理化社会や身体改造、などはもうとどまることなくこれからも進行してしまうのか。止める方法はないのか。」

■地域や集団ごとに千差万別、ないしは、2極化していくのではないかとかんがえています。■たとえば、20世紀末以降の北米は身体改造にきわめて熱心な時空として理解されていることは、『社会学のまなざし』で紹介したとおりです。と同時に、かの地は、キリスト教原理主義的な信者がおおく、生命倫理などにおいても保守的で、妊娠中絶はもちろん、バイオテクノロジーのような分野へも強硬な批判をくりかえしてきた土壌があります。進化論生物学を否定して、創造論インテリジェントデザインなどを、本気で学校で教授させたがる超保守主義が、世界の最先端と目される北米にいきづき、そのいきおいはよわまってなどいない点だけみても、合理主義や超合理主義が世界中をおおいつくすことがないだろうことが予想できます。200年ぐらいまえの生活習慣を維持する(電気や自動車などを拒否)、アーミッシュなどがいまだに消失していないのも、北米でした。■進化論生物学を否定するのは、イスラム諸国も同様(「進化」というフレーズが頻出する「ポケットモンスター」は、イスラム圏で放送されないとか)。旧約聖書の世界観にとどまる人口が何億人もいる以上、それが数十年で消失するとはかんがえづらいでしょう。■ゲンかつぎや星うらない、星座うらないや、タロット、人相うらない、オカルトなど、科学とは無縁な心理も、世界中にたくさんあります。食文化におけるタブーなどもそうでしょう。クジラをたべたがる文化圏も、たべるのを野蛮視する文化圏も、同様に、科学とは無縁な信念闘争をおこなっているだけ。たとえば、資本主義などは拝金教ないし資本依存症もしくは金フェチ、血統幻想などは妄想のたぐいでしょうし、世界語を称する英語のスペリングひとつ合理化できません。ヒトは、事実上の慣習である「デファクトスタンダード」にしがみつくし、王族などセレブがだいすきだし。男性の性欲の現実など、相当部分妄想でしょう(子孫をのこすことから、相当遊離)。
■かくして、ヒトは現代社会であろうと、非合理主義からのがれられません。ですから、労働者を搾取する「マックジョブ」や、魔法にかけて何時間も行列させるディズニーマジックがはやると同時に、そこに全人口が吸収されていくわけではないのです。超合理主義は、すすむ空間では激化していきますが、まったく無縁といった空間も広大な領域でのこされるでしょう。■したがって、超合理化の典型例といえる身体改造も、てをだす層・地域はかたよるでしょう。美容整形がはやる韓国のような現実が世界中にひろがるとはおもえません。もちろん、「おやがくれたカラダをきずつけるなんて」といった日本列島に支配的な価値観が無傷のままではないはずですが。




◇質問7「前回のガラパゴス化について、良い点はあるのか?」


ウィキペディア「ガラパゴス化」には、つぎのような記述があります。
「全体の傾向としては、日本独自(あるいは一社だけの)の規格を採用したり、日本(人)固有(日本語や日本文化、日本の環境など)のニーズにもとづいて商品を開発したりすることで日本の消費者を囲い込む。日本という限られた市場での消費者を取り込んでいるという状況にあるので、顧客一人あたりの単価を上げることが追求され、高性能・多機能・高価格化が起こる。日本国外からの参入が阻まれ、一定の利益はあがるが、同じ商品で世界市場に参入することは困難な状況に陥る。その一方で、世界市場で営業を展開する商品は、消費者のニーズの多様性から機能や品質は日本の製品に比べれば劣るが、生産規模が膨大であるため安価である。あるいは同価格帯の製品を比較した場合、日本の製品の方が、スペックなどの面で見劣りする。(携帯電話、パーソナルコンピューター、カーナビゲーションシステムなどは、スペック、や機能または両方高性能である場合が多かったが)
日本の製品は日本市場に封じ込められ、高機能・高コスト化を強いられるなか、海外製品は世界市場での切磋琢磨から徐々に高性能化し、最終的には基本性能も国内仕様の製品に並び、やがて上回るようになる。このようにして、世界標準にもとづいた低価格の海外製品が一気に日本国内に流入し、日本独自仕様製品の敗北という結末に結びつく。」
 ↑■こういった危険性は、エレクトロニクスなどの分野では、たくさんおきたし、今後もおきえるでしょう。しかし、これは、「世界標準にもとづいた低価格の海外製品が一気に日本国内に流入」するといった市場にかぎられたものです。逆にいえば、多国籍企業が魅力を感じない日本市場であるとか(消費者が多様であり、市場が細分化されすぎているとか、「高機能・高コスト」をいとわない消費者がすくなくないとか)であれば、国内企業の淘汰が発生するわけではないと。■たとえば、新幹線などは、単に既存のJR各社が独占的な体質だからといった問題だけでなく、日本列島の地形・気候への対応とか、乗客の異様な時間厳守指向であるとかをみたせない外国企業は参入しようとしないはずです。
■つまり、「ガラパゴス化」とは、国内企業が安価な商品の圧倒的な流入という中長期的なリスクを問題にしているのであって、「日本(人)固有(日本語や日本文化、日本の環境など)のニーズ」に特化した商品開発とか、それによる独自市場の形成といった問題に全部かぶさるわけではないと。■新幹線などは、駅からとおく沿線にすむほかない住民にとっては公害をまきちらすシステムだし、これで、ひがえり出張をしいられる労働者にとっては、ありがた迷惑でしょうが、すくなくとも、旅客システムとしては完成形にちかいわけで、隔離されたガラパゴス諸島に保護された生態系のような脆弱性はないし、消費者のニーズに極限までこたえているといえるのではないかとおもいます。
■だから、「良い点はあるのか」ときかれれば、モデルが中長期的リスクを問題にしているから、リスクをかんがえないですむ領域があるでしょう、としか、こたえようがないのです。