社会学A(中京大学2016年度)質問回答補遺7

◇「自由主義原理によって駆動しつづけ変動をやめない近代空間は人類史においてどういった部分が特異なのですか?」:■出席率がたかい履修者からの質問だと、正直ショックです。■しかし、テキスト/授業の不備の端的な結果なのですから、できるかぎり補足説明しなければなりません。

■第3回プリントp.12で、現生人類誕生から20万人のなかで、近代を200年とすると時間上0.1%しかしめないこと、人類史上地球上に存在した人類の総計が500〜3000億人と推計されるなか、近代にいきた人類は過半数はしめないだろうという試算をかいておきました。つまり、時間軸のなかではごくごくわずかな比率しかしめないし、人口爆発開始後の全人類は、それ以前の人口累計をうわまることはないだろう。つまり、まず量的に、近現代をいきてきた人類は少数派でしかない新参者集団だと。
■おなじく第3回プリントp.3で「世襲身分社会がほとんどをしめてきた人類史のなかで、自由主義原理に即した社会は前代未聞であるという点で特殊」だとまとめておきました。■何度も授業中にくりかえしたとおり、世襲身分社会とは、支配身分のみならず、住民全体が、現在の王族のように大半「かた」にハメられて人生をおくるほかない存在だったのです。父母がだれかで「格」が決定され、男女いずれであるか、兄弟姉妹のなかで何番めの誕生かの「合力」で、人生の大半が、「かた」にハメられて宿命づけられていたと。居住空間、結婚あいてをふくめた交友関係、職業選択、財産管理など、あらゆる面で、人生の90%ちかくは、想像どおりに推移し、近隣で過去数十年にみききしたとおりの展開をおおはばにこえることはない現実が、世界中をおおっていました(もちろん、個々人の運不運など悲喜こもごもはあったし、不測の事態は少々あったわけですが)。たとえば自作農の長男として健康にうまれたなら、30年くらいまえに父親が経験したことと大差ない人生をトレースするといった状況です。
■それに対して、あくまで原理原則にすぎませんが、(王族など一部特殊な集団・個人を例外として)法のまえの平等がうたわれています。それを前提に、自己責任で主体的に人生を選択していく自由主義が近現代空間。■経済先進地域にくらしている、特に20世紀末以降に ものごころついた世代にとっては、自由主義的な感覚が常識化しています。男女双方がかかえる被差別感とか、経済階層・階級、生活空間それぞれのあいだでの格差など、理不尽はたくさん意識されているものの、原理的に(権利上の)平等は自明であり、「法律の許容範囲内にあるかぎり、自己責任でどんな選択肢をえらぼうが かって」という自由主義は定着してひさしいのです。■しかし、前段でのべたように、200年まえの世界は、そういった自由主義原理から対極の、固定化された空間だったのです。たとえばフランス革命で「自由・平等・友愛」が理念として公然とかかげられるまえは、身分ごとの日常・一生があたりまえだった。そればかりか、ほぼ1世紀まえの漱石作品の登場人物が、全然自由でなどないことをみても、自由主義原理がうたわれたあとも、ながらく貴族身分や資産家など特権的な人士・淑女たちが存在する一方、「自分たちも、たからくじレベルの確率では、セレブになれるかも」といった夢想さえナンセンスだったのです。■「朝ドラ」や「大河ドラマ」など広義の時代劇とは、そういった、世襲身分原理によってものすごく不自由だった時代を非日常として消費するものです。逆説的に、われわれが、いかに原理的に自由であり、「自己責任」原則のもと放置・黙認されているかを、うらがきしているのです。そして、それが、いかに人類史上、特異(特殊)であり、前代未聞の現実なのだということを、すっかりわすれてしまっているのが、現代人だと。

■実は、ヒジャブイスラム圏での女性用スカーフ)を着用する風習/規範などをみるだけでも(オリンピックなど競技スポーツでは、着用は大問題になります。)、「法律の許容範囲内にあるかぎり、自己責任でどんな選択肢をえらぼうが かって」という自由主義は、世界中に定着しているわけではありません。広域に分布するイスラム教徒だけで16億人。インドを軸としたヒンドゥー教徒が9億人。かれらの信仰のあつさ、教義の遵守度に濃淡はあるわけですが、くわえて中南米をカバーするカトリック教徒(12億人)や北米のプロテスタント原理主義などの保守性を勘案しただけでも、世界人口の半数程度が「自己責任でどんな選択肢をえらぼうが かって」という原則からほどとおい価値観にそっていきていることが推測できます。
■だから、中朝など独裁体制だけをあげつらって、あるいはイスラム圏/カトリック圏のひろさや人口をしらずに、外国≒アングロサクソン文化圏といった軽薄な世界観にそって、「人生は自由に選択できる」といったイメージを自明視するのは、まちがっているのです。時代劇でくりひろげられる悲喜劇を「対岸の火事」として、自分とは無関係な非日常的現実とおもいこむのも、視野があまりにせまいことがわかるでしょう。■「人生は自由に選択できる」という原則は、たとえば北米やアジアのスラム街(それらは、タエマエは自由主義空間です)にそだてば、空文化するわけですし。

■しかし、以上のような概観をへても、「自由主義原理によって駆動しつづけ変動をやめない」という構造は、世界の広域をおおっています。カトリック教徒がふえようが、北米は変動をやめない代表的空間でありつづけるでしょうし、「ガラパゴス空間」のそしりをうけようが、日本列島も変動をつづけていくでしょう(実際、戦後70年の変動は巨大でした)。そしてそれは、くりかえしになりますが、空前の現実なのです。■そもそも、ヨーロッパのローカルなあそびだったサッカーが世界中に輸出され、プロリーグが各地に定着、ワールドカップはもちろんオリンピックで億単位の人口が熱狂する。数十億単位の巨額の資金が、有力選手の売買のためにとびかうといった事態を、100年まえの人間たちが想像できたはずがありません。現代人のおおくは、200年まえ、プロスポーツ選手という存在自体がほとんど無意味だったということをわすれているでしょう(江戸相撲大坂相撲などは、世界でも例外的少数だったはずです)。大航海時代にはじまる帆船の乗員たちは、自分たちがさきがけだった大西洋航路が、空路としてサッカー選手やファン層を大量輸送する時代へとひきつがれることなど、夢想さえできなかったはずです。奴隷交易ではなく、世界のスーパースター(セレブ)をファーストクラスではこぶというサービス業としてですが。

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