社会学A(中京大学2016年度)質問回答補遺6

◇「第15回プリントp.4 「グローバル化」という現実④:“bads”移動の地球規模化は「“goods”には“bads”がつきものである」というように理解した。では、“goods”も“bads”も生まれていない、何もない世の中と、今のようにとても便利になってきて“goods”がたくさんある分“bads”も発生してしまう世の中。結局どちらの世の中の方がいいと先生は考えるか。」:■第12回プリントp.15に掲載した質問◇「英国のEU離脱はどうなるのか?」に対して「……権威主義的姿勢は、社会学のまなざしと対極のものです(第9回プリントp.18「消費税延長/衆参ダブル選回避に対する考えを教えてほしい。」、第7回プリントp.11「このまま時代が進んでいき世界中の資源が減っていったとき、どのように世界情勢が変わると思っていますか?」への回答参照)と回答したように、ましこの個人的見解をただしても、社会学的センスから乖離(カイリ)します。■毎週の配布プリントで14回にわたり掲載してきた質問に対する回答も、あくまで「社会学徒が社会現象を対象化する姿勢・視座がどういったかたちになるのか」という解析過程をしめすことにねらいがあり、ケーススタディとして「見本」を提示するようなものにすぎません。解析過程をないがしろにして「結論」だけほしがるのは、「(不明なまま放置する)ブラックボックス」の甘受にすぎず、それは、非科学的な妄信のたぐいにすぎません。不安がしずまり、平静にもどれることだけが目的なら、「(指導者にだまされるかもしれないといった)リスク」を想定しない、従順なだけの信者と同質でしょう。
■さて、「グローバル化」の加速化という20世紀末から進行中の自体の功罪については、『社会学のまなざし』やプリント、そして『加速化依存症』で再三解析してきたように、うごかしがたい事実として、功・罪両面が激増したという以外のことは、いえません。むしろ、それを量的に比較できるという発想自体が誤読というものです(筆者の力量不足をたなにあげてのはなしにすぎませんが)。

社会学のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

社会学のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

加速化依存症―疾走/焦燥/不安の社会学

加速化依存症―疾走/焦燥/不安の社会学

■ただし、もし かりに量的増大を是とする価値判断にたつなら、『社会学のまなざし』でページをさいたように、人口増(端的にいえば、20世紀後半以降からの人口爆発)と輸送革命など加速化空間は、劇的進歩というほかないでしょう。経済先進地域で少子高齢化がすすんでいるものの、世界全体としては人口増がやむことがない以上、女性/乳幼児の少死傾向がどんどんすすむような、社会の健康水準の向上がみられるということ。そして、それをささえているのは、物資やエネルギーや重要情報や人物を高速で遠距離まで安全にはこべるようになった輸送革命です。輸送革命をもたらし/ささえたのは産業革命であり、それを複製技術と物理化学革命がもたらした(たとえば、ボイラー/エンジンの発明と化石燃料の活用)。これら全体のプロセスを加速化しているのはコンピューターであり、その副生物としてのネット空間といえるでしょう。■移動速度と人口密度があがるのですから、世界は「どんどんちいさく」なっていくと。これらのプロセスは、たとえば、物理的限界がやってくることで早晩おわるとされている「ムーアの法則」のような傾向と同様、加速化と人口増は早晩減速し、いずれ やむはずなのです(いえ、中長期的には確実に限界=おわりがきます)。
グローバル化の進行とは、こういったプロセスが世界の広域で展開することです。そして、世界中のおおくの人口は、人物/文物/情報の大量高速移動を基本的に「福音」(“goods”)としてうけとめてきたはずです。ビジネス動向にくわしいひとなら、コンビニ/回転ずし/居酒屋/100円ショップなどの商品のおおくが海外依存であることを具体的素材や輸入ルートとして認識しているでしょう。■爆買い観光客に、まゆをひそめる(“bads”とみなす)層がいる一方、「(爆買い)ツアー御一行さま」の入港/到着をこころまちにしている商店街はたくさん発生しました(通販にシフトしはじめた中国人の動向に絶望的な店舗もあるとか)。覚醒剤などあきらかな“bads”が大量流入していると実感するような層は、例外的少数のはず。普通にいきている一般市民のまわりには、そういった“bads”など視野にはいってこないからです(普通密輸だから当然ですね)。むしろ、非合法薬物の大量流入などを強調する報道は、警察/麻薬取締官などの意向をうけたキャンペーンとかんがえてよいでしょう。たとえば、銃砲などはX線などの検査をくぐりぬけることはごく例外的ですし、大規模なテロリズムを決行するための武器などはもちこむことはほぼ不可能です。
■外国からの危険の流入をうんぬんするなら、万単位で流入・駐留しつづけてきた米兵の存在に注目すべきでしょう。日本人の大半は、沖縄での凶悪犯罪を過小評価する報道体制や政府のよわごしなどで、結果として強力に洗脳されていて、米軍が用心棒として不可欠な存在なのだとおもいこんでいるようです。しかし、凶悪犯罪に限定すれば、在日米軍基地周辺の米兵の危険性は、強調しすぎることはないでしょう。このリスクを矮小化するからこそ、沖縄に広大な米軍基地を平然とおしつけ、米兵による頻発する蛮行をロクにしらないまま、のうのうといきつづけられるのです。■このようにかんがえると、日本列島の大衆の大半は、“bads”の質/量を過小評価するように日日洗脳されているようにみえます。
■そして、技能実習生を技能研修の美名のもと単純労働力として大量に「輸入」しつづけてきたこと、現場では深刻な人権侵害が横行してきたこと、そのくせ、実習さきから逃亡して不法滞在している、といった、来日外国人=危険分子観だけが強調されるのは、この列島の排外主義的な認識と、搾取に鈍感な体質を象徴しているといえるでしょう。

■ちなみに、「“goods”も“bads”も生まれていない、何もない世の中」というのは、どこにもないという意味で「ユートピア」です。近代以前であろうと、経済学的な意味での“goods”/“bads”は実在していました。複製技術の水準が異次元(質的/量的両面で)にありました。ありとあらゆるものが複製技術を軸に大量に生産されること、大量に高速で輸送され消費され廃棄されるという構造です。近代以前のひとびとは、そういった技術環境に接したことがないからこそ、感覚マヒがありませんでした。王侯貴族だとて、希少なモノ/人物、という「感謝」の念を共有していたのです。■その意味では、グローバル化をふくめた大量高速移動は、世界中の大人口を感覚マヒへとおいこみ、「大量に消費するのに、そのありがたみを感じられず、幸福感にうえている」ひとたちも、大量にうみだしつづけています。その意味では、人口/物品/情報の大量発生は、巨大な不幸の誕生といえるかもしれません。




◇「第14回プリントp.2で「「グローバル化のおかげで社会はよくなっていく」といった粗雑な楽観論にたたないことはもちろん、「グローバル化のせいで社会はわるくなっていく」といった単線的な悲観論にもたたない」と述べているが、先生はどちらの考えを持っていますか?」:■前項の質問への回答だけで、充分なことは明白ですね。ましこは、教員として生活のかてをえている職業人としてだけでなく、社会学徒のひとりです。姿勢として「護教」をすてない(社会学徒であることをやめない)かぎり、「粗雑な楽観論にたたないことはもちろん」「単線的な悲観論にもたたない」。それだけです。どちらかこたえろというのは、論理的にナンセンスですよね。「ホンネはちがうだろ!」という、ツッコミでただしているのなら、別ですが、だとしたら、質問の話芸が必要ですよね(苦笑)。