社会学A(中京大学2016年度)質問回答補遺1

大教室での回収分を中心に、授業内で未回答の質問に随時回答していくことに。
基本的には、授業で毎週配布してきた講義プリント(質問-回答が大半)のブログ版と、みてもらってまちがいない(リンクがはれるのが、全然異質)。

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①◇「公務員試験に「社会学」という科目があるのですが、その対策として何かすべきこと等があれば教えて下さい。」:■実は、この手の質問が10年ぐらいでなかったため、すっかり浦島太郎になっておりました。ですので、以下は、不完全な情報です。あしからず。■まず、「公務員試験 社会学」と、そのまま検索をかけると、公務員試験受験関係者が、試験対策としての社会学周辺に、いろいろかたっていることがわかります。それらに共通する見解は、「政治学行政学社会学の3科目はかぶっている部分が非常に多く、学習法がほとんど同じなので」「まとめて紹介してゆきましょう。」「単刀直入に言って、この3科目は暗記科目です」といった論調です。■ですので、残念ながら、ましこ担当の「社会学A/B」は、いくら熱心に勉強しても、公務員試験対策になりませんので、あしからず。
■すくなくとも、検索結果の上位にあがるサイトがそろって「いちおし」にしているのは、『公務員試験行政5科目 まるごとパスワードneo』。地理歴史系で受験する学生がみな入手する、「山川の用語集」の社会科学版といったところでしょう。

公務員試験 行政5科目まるごとパスワード neo

公務員試験 行政5科目まるごとパスワード neo

■あと、過去問の解説をしているものとして、資格試験研究会『公務員試験 新スーパー過去問ゼミ4 社会学』実務教育出版(2014)
公務員試験 新スーパー過去問ゼミ4 社会学

公務員試験 新スーパー過去問ゼミ4 社会学

■勉強のやりかたは、「公務員試験 社会学」の検索結果上位にくる、「政治学・行政学・社会学−公務員試験対策室」とか「社会学・社会調査 - 福祉職公務員 対策支援課」など、いくつかよみくらべるといいとおもいます。
■個人的な見解をのべさせてもらうなら、こんな受験勉強は公務員という就職ポストとあらそう「イスとりゲーム」の勝敗問題に関係するだけであって、社会学の本質とは無関係といっても過言でないとおもいます。■ここで、「ああ、学者さんが、学問的でない、とか、権威主義的/教養主義的なケチつけてるよ」などといったツッコミは無用。受験勉強が単なる暗記に終始するかぎり、それは社会学史のうち、デュルケームなど古典的な研究者のなまえと、事典的な術語・学説を短期間だけつめこむだけ。それは「社会学感覚」(野村一夫)「社会学のまなざし」(ましこ)などとは、およそ無関係であり、むしろ、社会学を受験科目としてとらずにすむ自治体等をえらび、暗記に浪費される有害無益な時間を教養書として社会学関連本を1冊でもよんだ方が数段マシという意味です。■某予備校の参考書をみて、問題を感じない社会学者は少数なはずです。こんなユガんだ社会学観を注入されてしまうぐらいなら、やらない方がマシだし、これで「社会学を一応カジったつもり」の錯覚層を公務員に大量に発生させているなら、実につみぶかい。■大学で、教養科目としての「憲法学」を履修すると、あたかも憲法の理念をよく理解し、遵守できる教員が毎年確保されているかのような幻想と、同形なのでしょう。公務員試験で「憲法」を選抜試験にださないわけにはいかないでしょうが、教職科目に「憲法」を必修にしておくだけで憲法遵守を維持できるかのような錯覚・偽善は、やめてほしい。おなじように、公務員試験に、こんな感じの出題をつづけるなら、「社会学」ははずしてほしい。というか、これ出題にたずさわっている社会学者は、罪悪感もたないのでしょうかね。こういった、勉強したふり、したつもり、という集団レベルでの錯覚をくりかえすのは、学問・教育業界にとって邪魔であるだけでなく、受験生の時間を浪費させ、かつ「社会学は暗記だ」式の、「歴史・地理は暗記だ」と同形の有害無益な装置だとおもいます。


◇②「第15回プリントp.5, 8-9行「実は、公教育空間としての「学級」は「養鶏場/養豚場」に酷似している」とありますが、「学級」と「養鶏場/養豚場」の共通点、もしくは酷似している点は何ですか? 自分が考えたのは、インフルエンザで集団感染を受けた場合に、養鶏場ごと殺処分するところと、学級ごとに休みにする「学級閉鎖」のあたりは似ているかな、と。」:■現代の養鶏場/養豚場など大量生産システム(生命生産工場)の欠陥として、つめこんでいるがゆえに病原体が「大量に媒介される宿命をもつ」ことを指摘しました。こうした「生命生産工場」での効率化のための徹底的なコストダウン(=単位面積・単位時間あたりのタンパク質生産量)は、当然、ハイリスク・ハイリターン戦略だということです。■40名前後の生徒を、せまい教室につめこむことを「必要悪」とかんがえる教育関係者/財政当局は、OECD諸国で最低水準の教育予算をもって、OECD諸国でトップクラスの学力水準を維持してきた。すさまじい「コスパ」です(苦笑)。なにしろ、世界に冠たる産業戦士たちを、最低ラインのコストで大量生産しているのですから。養鶏場/養豚場が、動物性タンパク質生産の最先端なら、産業戦士のローコスト生産装置は、現代の小中学校+学習塾というほかありません。■しかし同時に、インフルエンザ大流行の温床は学校の教室ですし、病院等が、肺結核の感染空間にマレになったりと、多数が収容され長時間接触しつづるばあい、感染経路が大量になるのは、さけられません。保育園や幼稚園もそうですが、こういった大量収容施設のハイリスクぶりは、もっとしっかり認識されるべきだとおもいます。



◇③「第15回プリントp.13, 12-3行に、「「マクドナルド化はとめるべきか」といった、性急に是非をきめようといった短気からは「卒業」……」とありますが、いつ是非を決めるのでしょうか? 例えば、マクドナルド化が進みきってから是非を決めて、ああするべきだったとするのでしょうか?」:■そもそもプリントの論旨が、「性急に是非をきめようといった短気」という表現をえらんでいるように、あまり時間をおかずに是非をとう姿勢を軽侮しているも同然です。これは、一定方向の価値観にみちびこうと誘導しているとのそしりはまぬがれません。■と、同時に、「進みきってから是非を決めて、ああするべきだったとするのでしょうか」という表現も、自分のなかでは、「おそきに失する」「後悔さきにたたず」系の判断でできてしまっているうえでの、疑念をぶつけているだけですね。そうであれば、質問の方向をかえるべきです。
■テキスト/プリントの主旨がまだのみこめていないようですが、「グローバル化」はとめようとしてとめられるものではない流動体ですし、「マクドナルド化」の相当部分もおそらくそうです。■もちろん、地球温暖化防止策のように、「はやめに、てをうっておかないと」といった、積極策はありえるのですが、「化石燃料のつかいすぎは、まずいからやめよう」というスローガンだけうっても、全然具体的改善にはつながりません。おなじく、経済先進地域で「うめよふやせよ」路線が女性たちから猛反発をくうだろうことと同様、「マクドナルド化」しないようにしようという運動も、大半ムダです。何度もくりかえしのべたように、「あきんどスシロー」とか「サイゼイリヤ」レベルの料理なら、おおよろこびで「マクドナルド化」をうけいれる大衆が大量に発生したからです。■「チープなサービス大歓迎」があるから、「ドリンクバー」や「サラダバー」がはやるし、「とりあえずかせぎたいという学生がいるから、研修期間が超短時間のマックジョブがなくならない」。マクドナルド化の本質は、ここにあります。
■おおくの、くりかえされる社会現象には、ヒカリとカゲが同居する。急速に同一方向をむいて発生したうねりは、単なる一時的流行などではなく、構造的なうねりである。……かくして、社会学的社会観からすれば、「マクドナルド化はまずそうだから、はやめに阻止」といった即断には絶対いかないのです。「マクドナルド化がここまで進行するのは、よほどの力学が発生しているにちがいない」とうけとめると。高度経済成長期に、家電製品や自家用車などを、みんなあらそってかいそろえたように、ファストフード店/病院/学校などで進行中の現実も、ここ四半世紀ぐらいで、急速に一般化した現象なのですから。■社会学としては、このうねりを、じっくりみきわめ、今後どういった方向に展開しそうかを、がんばってイメージすることぐらいです。
■ただし、テキスト/プリントでくりかえしのべたように、「マクドナルド化」という超合理化過程が、負の側面をもっていることは、もはやまぎれもない事実です。「カゲ」の部分がないかのような楽観論には、社会学周辺は絶対たちません。現にいろいろ問題が発生してきているのですから。■そして、イタリアのバールだとか、マクドナルド化しきっていない世界の実例をいろいろ紹介したはずです。もう一度復習してみてください。
【つづく】