歴史社会学(史的社会学ではない、歴史意識の社会学)のための おぼえがき2

「歴史社会学(史的社会学ではない、歴史意識の社会学)のための おぼえがき1」(http://d.hatena.ne.jp/MASIKO/20120928/1348802644
0.はじめに
 0−1.この「おぼえがき」の位置・意味
1.問題意識と方法論
 1−1.問題意識
 1−2.方法論
  1−2−1.歴史データに対する基本姿勢
   1−2−1−1.歴史データにおける文献至上主義への距離
  1−2−2.援用する社会学的分析の機軸
   1−2−2−1.防衛機制をはじめとした動機の推定
   1−2−2−2.属性による「プロファイリング」と、少数例へのめくばり
   1−2−2−3.科学社会学周辺の蓄積の援用
  1−2−3.前提とする社会学的周辺の分析手法
   1−2−3−1.比較対照
   1−2−3−2.時間的遡行(文脈解釈への警戒感と単純な因果関係理解)
   1−2−3−3.国民国家や国際組織、国際法などの自明性にもたれかからない


 をうけたものを、以下展開する。



2.「強制連行はなかった」論の再生産構造

2−1.プロパガンダとしての「強制連行はなかった」論の心理的基盤

 「ホロコーストなどなかった」論や、「南京大虐殺など存在しない」論など、戦争犯罪の「不在」論は、くりかえし誕生し、信じられている。しかも、「証拠」があるのだというのが、それら「不在」論の共通点である。
 結論からいえば、それらは疑似科学系の偽造歴史であり、科学的検証にたえるものではないし、事実自体は、日本の裁判所も認定している。たとえば、中国人の劉連仁のケースなどは、その典型例といえる(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%80%A3%E4%BB%81)。裁判所が事実認定をさけて時効を理由に門前ばらいしたり、証人尋問をさけて和解勧告したケースもある(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E8.8A.B1.E5.B2.A1.E4.BA.8B.E4.BB.B6)が、これらも担当判事らが企業よりの政治思想をかくしてもっていたことの産物と推定できよう。事実認定にふみこまない合理的理由は、証人が高齢であり出廷できないなどぐらいしかみあたらないが、聴取や録音・録画、書面による提出等、事実をあきらかにする方法はいくらでもあったとかんがえられるからである。企業が「和解」に応じたこと自体、「事実自体なかった」という見解でおしとおせるとは企業がわ弁護団も判断しなかったということを意味する。すくなくとも、「事実自体なかった」論を立証するだけの「物的証拠」を用意できなかったということだ。
 いいかえれば、「ありもしなかった事実」を関係者が妄想や記憶ちがいにもとづいて裁判をおこしたにすぎないといった見解は、まちがっていることになる。
 そもそも、「強制連行」関連にしぼっただけでも、膨大な文献資料がのこっている。たとえば、約20年以上まえの文献にしぼったリスト(〜1994年)でさえ、めまいがするぐらいの量である。(「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働資料集」http://www.han.org/a/lib/books.html
 基本的に「ある」こと(実在)を証明すること自体困難なばあいがおおいが、ともかく物証が「発見」されることで、それは可能である。しかし、「ない」こと(不在)証明は事実上不可能なばあいがおおい。典型例として「地球以外の知的な生命体の存在」などをあげればよかろう。「ないことを物証でしめせ」とねばられると、事実上できないことがおおいので、「不在証明」は、基本的に「物理的にありえない」という論理的反証といえよう。

 しかし、いわゆる「従軍慰安婦」(「性的奴隷」等の表現をえらぶべきとの指摘がある)問題などに関しては、書名ずばり「強制連行はなかった」をえらんだものがある。

慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない

慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない


【2012/10/09加筆】
 「なかった」論の共通点は、おそらく、「(日本政府/現地当局/日本軍が)組織的に残虐行為・搾取行為にかかわっていたという事実はなかった」ということのようである。「事実はなかった」という言明の論理は、①「事実があったというが、物理的にありえない」。②「事実があったという物証は存在していない」。③「事実があったという証言は、あらゆる意味で信用ならない」という、3つのレベルに分類できそうである。議論を網羅的にしらべていないが、「南京大虐殺」とか「朝鮮半島からの収奪」などは、これら全部のかたちをとっているとおもわれる。
 それに対して、いわゆる「従軍慰安婦」については、将兵の性欲処理の女性たちが制度的に用意されていたという事実については、否認する意思がないようだ。その結果として、「強制動員や誘拐、詐欺的募集」「セックスワーカーとしての正当な対価の未払い」「監禁や虐待や戦地での放置」「未成年女性の動員」などが、全然「なかった」、と事実を全部否認する論者から、日本軍の命令でなされたわけではなく、民間団体がかってにやったのを利用しただけ。という、規制の不在。軍組織の倫理性の欠落をひらきなおって、皇軍の尊厳を維持しようという、卑劣というより、ハレンチなものまで、さまざまな論理構成があるようにおもえる。
 うえにあげた、文献2点は、後者の典型例といえよう。おおざっぱにまとめるなら、①民間業者が現地人の斡旋人を利用して、プロのセックスワーカーを、強引でなく募集した。②軍は、これら民間業者の用意した女性たちを利用したにすぎず、兵士の逸脱行動をはじめとして憲兵などが規制し、女性たちを保護していた。③未払い金などはいっさいなく、女性たちは充分な対価をえて無事帰国した。と主張したいようだ。要するに、日本軍は、まったくはじることなどなく、したがって清算は完全に成立しているので、日本人はなんら、韓国や日本の左派などからの批判にみみをかす必要はない。なぜなら、事実が存在しない、でっちあげであり、日本の尊厳をおとしめるという悪意のためにデマがくりかえされているにすぎないからだ。といったところであろう。
 これらの事実の是非については、のちほどにゆずるとして、これら論者の大半が(無自覚なミソジニーをかかえた)男性であり、一部の女性たちも、基本的には、マチスモを前提に議論をすすめていること、その性差別性に無自覚であることは、ここで確認しておこう。たとえば、つぎのような記述は、完全に男性中心主義であり、かりにあいてがプロのセックスワーカーであろうと、性差別の意識が露呈していることを否定できない。

「かつてどの国の軍隊も自国の兵隊が強姦事件をおこして住民の反発を買わないように「慰安施設」を設置しており、将兵が性病に罹患するのを防止するために「健康診断」を実施するなど慰安施設に関与していました。日本の名誉を回復するためには、「慰安施設」が日本だけでなくどの国の軍隊にとっても「必要悪」として存在していたことを、まず直視すべきです。それをあくまで否定するなら、それは人類全体の問題であり、これから先何十年いや何百年かけて人類の倫理性を向上することで解決していく以外に道はないでしょう。世界人類共通の重い課題なのです。」(松木国俊『「従軍慰安婦」強制連行はなかった』明成社,2011,p.44)

 かたるにおちるとは、このことである。ホモソーシャルで暴力的な閉鎖空間である軍隊が、そのガスぬきとして、性的に搾取される女性たち(少数は少年たち)が、軍組織の「後方」として用意されないと機能しないというのである。オトコたちの なぐさみものとして、肉体を自由にされる女性たちが「必要悪」として「不可欠」なのだと、ひらきなおり、およそ軍隊であるなら、絶対にあるはず。と、断言してしまう。そして、その立証などは当然のようにしない。それは、読者が、同様のマチスモや、それに同意する性差別を甘受する(あるいは、自分たちが「必要悪」として犠牲になることは絶対にないと、たかをくくれる)女性たちだからだろう。
 だから、性病罹患の調査としての「健康診断」も、将兵への感染をおそれてのことであって、「道具」としてつかわれる女性たちの人権など、最初から考慮されていない。くだんの論者たちにとっては、貧困など事情があれども、プロのセックスワーカーが、性感染症のリスクや不愉快にたえるのは当然であり、かのじょらこそ、汚染源なのだということだろう。買春ツアーや性風俗の利用者に女性がほとんどイメージされないように、性感染症の媒介者(キャリアー)は、基本的に一部の奔放なオトコたちにきまっているのに。【この段落加筆。2012/10/30】
 こういった性差別・階級差別をひらきなおっている論者からすれば、生存者がカミングアウトするという行為は、ハレンチや論理矛盾にしか、とれないであろう。「プロのセックスワーカーが、性的になぐさみものになったなどと、賠償をもとめるのは、すじちがいだ」といった、ぬれぎぬ論など、責任転嫁がくりかえされるのは、必然であろう。かれら・かのじょらにとって、先人たちが植民地女性や、捕虜女性(たとえばインドネシアのオランダ系女性)が、性的に侮辱されたという、尊厳問題が、はじめから、理解のそとにあるのだ。性差別を基盤として、階級差別や民族差別がかぶさるかたちで、「必要悪」が正当化される。それへの異議もうしたては、「当時は、それが常識だった」の一点ばりで、全面否定するのである。
 私見では、こういった「しかたがなかった」論は、昭和天皇による「原爆投下はやむをえないこと」発言(1975年)などと同様、アメリカ軍などの戦争犯罪を甘受するマゾヒスティックで売国的な歴史認識と通底しているとおもわれる。ちがうのは、アメリカ軍の戦争犯罪が「かてば官軍」式の「勝者の歴史観」であるという普遍性をおびているのに対して、日本のこれらゆがんだナショナリズムは、「敗者」にもかかわらず、戦争犯罪を否認しつづけている点である。もちろん、ドイツとも正反対であろう。
http://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

 うがったみかたをするなら、右派ナショナリストほど、対米戦争における屈辱がトラウマとなっており、連合軍による占領状態はもちろん、「9条」や「皇室典範」に象徴される新憲法の存在がたえがたく、そうであるがゆえに、「あの超大国アメリカにだけまけた」「あの超大国アメリカとの全面戦争はさけられなかった(さけられないよう、国際的謀略にひっかかった)」という、事実をかなりの程度ネジまげた戦史(たとえば日中戦争を過小評価し、対ソ戦などをレイプや抑留だけに矮小化するなど)へと、逃避したものと推測される。かれらのおおくが、反米ナショナリストではないのに、憲法改正などをいいたてるのは、これらのトラウマ=屈辱の無残な露呈=矛盾といえよう。そして、そういった、親米保守をしいられた 非反米右派ほど、防衛機制の矛盾は、対東アジアへの攻撃的態度として表出するほかない。
 かれらが、こと東アジアに対する(オランダ人慰安婦問題は、普通浮上しない)攻撃的侮辱と、それへの批判に対する「なかった」論の反復。それは、準植民地として、沖縄はもちろん日本列島全域も、有事の際(米軍機の墜落もふくめて)「治外法権」化するという、地位協定に象徴される屈辱的な地位を、心理的に挽回するために、不可欠の装置になっているとおもわれる。
 かれらが「ガラパゴス諸島」の希少種のように異様なまでに世界から孤立したトンデモ歴史観にとじこもろうとする姿勢。それは、マッチョな自尊心をかろうじてささえるために、さけられない戦略(もちろん意識化することが絶対タブーな)なのではなかろうか? 「なかった」論という、非科学的であるだけでなく、不気味で異様な現実否認は、むしろ、論理など超越した信念であり、一神教に帰依しない第三者が理解不能な信仰体系と同質の、「民族宗教」なのかもしれない。かれらは(いささか検閲がかかっているとはいえ)露骨なナショナリズムでそまってはいない歴史教科書に、「自虐史観」などと、あたかも「国際的な左派による陰謀で教科書記述が支配されている」かのような妄想にとりつかれて、しつこく猛烈な攻撃性をみせる。それは、対米追従外交を是認するとともに、東京裁判や新憲法が、アメリカの左派勢力の謀略でうまれた歴史の「まちがい」なのだという、アクロバティックな解釈なのであろう。そして、対米追従的な現状を整合的に説明し、精神安定をえるためには、そういった解釈しか、もちようがないのだろう(ホンネや無意識レベルでは、ちがうかもしれないが)。かれらが、まるで「(原爆投下や地方都市無差別爆撃など、人体実験的な)戦争犯罪などなかった」論を信じているかのように、アメリカの戦争責任をとわず、憲法制定期から東京裁判当時ぐらいまでしか、アメリカを敵視しないのは、「(植民地支配=搾取の延長線上の)戦争犯罪などなかった」論と、せなかあわせなのだろう。
 かれらの暴力的な言動(モラルハラスメント)と、対米追従という実に卑屈な姿勢とは、戦時中および戦後の「暴力」を不在とみなす、防衛機制の産物なのであり、だからこそ、被害者に冷淡であり、加害者に異様に好意的なのである。この背景に「栄光の皇軍」という、グロテスクなナショナリズムがあることはあきらかだ。その尊厳は、天皇同様、絶対に不可侵なのである。「日本国の象徴」なのだから。かれらは、なにか支配をねらうとか、そういった冷静な政治的動機にそって行動しているのではなく、無自覚に、同形のプロパガンダへとおいこまれているのだ。おなじマチスモ信者として、おなじトラウマにくるしみ、おなじ不安におののくがゆえに、おなじ攻撃性を、おなじ対象へとぶつける。現実的な根拠などなく、集団ヒステリーとしての発作的な反応である以上、際限なく、そして、そこにはおそらく回復がない。
 ネオナチのような貧困層ではなく、かなりめぐまれた経済階層にそだったとおぼしき、政治家や知識人の相当するが、こういった「病状」を呈するのは、以上のような集団心理のモデルによって、かなりの程度説明可能なのではないか?

【2012/10/22加筆】
 後段と加筆時期が前後するが、「なかった」論の心理的基盤を解明するうえで、重要な論点にきづいたので、つけくわえておく。
 うえで、改憲東京裁判批判をするくせに、「アメリカの戦争責任をとわず」「対米追従という実に卑屈な姿勢」という奇妙で矛盾した論理構成をとる傾向を指摘したが、もうひとつナショナリズムときりはなせない要素として、「韓国もやっている」等の論理をあげておく必要があるだろう。
 「韓国もやっている」論は、ベトナム戦争時の虐殺や性暴力などである。これで、南京など中国大陸ほかで実行した残虐行為を免責できるはずがないことは、冷静にかんがえればすぐわかることである。「なかった論」派が、状況上不利とみたばあいの「ひらきなおり」として、「売春婦」だっただの、「少数」だっただの、「高給」だっただのといった、いいわけをすることは、すでにみたとおりである。そして、それとは並行して、「ドイツ軍もやった」など、「慰安婦」制度が軍隊に普遍的であり、「必要悪」なのだという正当化ににげこもうとしたのであった。しかし、ベトナム戦争時の韓国軍の虐殺や性暴力への言及は、以上の逃避行動とは別種の意味をもつ。「韓国人女性はともかくとして、韓国人男性は暴力の主体として、残酷な行為をおこなった」という戦争犯罪をもちだすことで、あたかも戦前の蛮行が矮小化できるかのような印象操作をねらっているのである。これは重要な点である。
 かんがえみれば、朝鮮政府による拉致事件も、かれらの免責・矮小化意識に「貢献」しているおそれが充分ある。キム・ジョンイルなど朝鮮政府首脳が、強制連行という組織的蛮行の事実があったからこそ、拉致戦術をえらんだ(正当化した)可能性は否定できない。たしかに、規模でいえば、どんなに過大評価したところで、千人の水準には絶対におよばないだろう拉致事件と、どんなに過小評価したところで、強制・詐欺ほかの卑劣な手法で「動員」した日本政府のばあい、万の水準には到達してしまうはず。朝鮮政府からみれば、「大したことのない復習戦術」と罪悪感が矮小化されるのは当然ともいえた。しかし、おそらく、拉致事件の組織的関与を朝鮮政府がみとめたことは、日本の「なかった」論派の内心を、おおきく安堵させたのではないか?
 この韓国・朝鮮という、帝国日本の戦争犯罪の被害国へのナショナリスティックな防衛機制という意味で、以上のメカニズムは、対米追従という要素とからんで、きわめて重要な意味をもつ。韓国軍の過去の蛮行は特筆するのに、太平洋戦争・ベトナム戦争での米軍の戦争犯罪には くちをつぐむ。さらに、沖縄での性暴力など凶悪犯罪にいたっては、被害者に誘発するような「おちど」があったかのようなキャンペーンさえうつ。このバランスの欠落(異様な非対称)にむけると、かれらの防衛機制のお粗末さ(まあ、防衛機制というのは、第三者や被害者からみれば、すべてお粗末なものが大半だが)は、「なかった」論にたつ層・組織の動機のゆがみ、論理性の欠落、倫理観の欠如などが、確認できそうである。
 たとえば、つぎのような指摘は、非常に重要だ。

uchya_x 2012/09/22 17:16
例えば、従軍慰安婦に関して、彼らが「反論」として韓国軍の件について、あるいはRAAについて言及することはあっても、沖縄の海兵隊による性暴力事件について言及することは滅多に無い。
「軍隊と性暴力」という意味では無視出来る話ではないのに。彼らが「〇〇については何も触れないのか」というのが、ただの道徳的相殺にすぎないのが良くわかる。彼らに取って弱さは罪なんだろう。
でも、実際に戦争になったら、彼らのうちほとんどは単なる一兵卒どころか、無力な一般市民でしか無いんだけど。どういうわけか司令官目線でしかものを言わない。それこそ「お花畑」「平和ボケ」なんだけどな。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120922/p1

 こういった日米両軍への異様なばかりの あまさと、韓国軍や朝鮮人民軍・中国人民軍の暴力については、左派と大差ない苛烈な批判とが、共存するのは、みびいきといわれても、しかたがあるまい。
 そして、こういった みびいきは、ネット右翼在特会などの ヘイトスピーチにとどまらない。たとえば、最近の沖縄での米兵による性暴力に対して、森本敏防衛大臣が「非常に深刻で重大な『事故』だ」と発言したなどの感覚マヒは、つねに日米両軍の不祥事を矮小化しようという無意識の防衛機制があり、しかもそこに、無自覚なミソジニーがからんだケースといえよう。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-198298-storytopic-3.html
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-198321-storytopic-11.html



【2012/10/15加筆】
 なお、「なかった」論のなかでも突出した表現かもしれないが、ある意味凝縮された発信として、以下のページをリンクしておく(循環器系など、心配な読者には、すすめない)。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/index.htm

 ここでくりかえされるのは、「売春婦」だった(だから性的サービスは当然だった)、高給だった、強制などいっさいない、朝鮮人などのあっせんで全部おこなわれたといった論理である。「証拠」とされている資料等のとりあげかたには、矛盾や欠落があり、文献2点に対する論評がすべてあてはまるものである。女性の尊厳など、カケラも考慮されておらず、むしろ侮辱して当然とおもっているようだ。
 おそらく、つぎのような否定しがたい証拠が今後でつづけても、いっさい 直視をさけつづけるのではないだろうか?

永井 和「日本軍の慰安所政策について」
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html

・中曽根元首相関与示す資料
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html

・中曽根元首相も関与した「慰安婦」強制を安倍総裁と橋下市長が否定すべく河野談話を破棄しようとしている
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/8ef1ba7d5845bf9ad70f084066d4ec51

陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案
  陸支密第745号「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」(1938年3月4日付)
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/31/


 朝鮮人の業者がかってにやった、等の論理で、日本軍組織・利用将兵の擁護をしようとも、そこに誘拐ほかの卑劣な手段での募集があった事実、それらを日本軍や朝鮮総督府など官憲が規制しえなかったとか、そういった批判にも、こたえられるはずがないとおもわれるが、売春婦が不当に過去をネジまげ皇軍を侮辱している、という「結論」で思考が停止して、検証はおろか、議論のテーブルにつくことさえできないのである。

朝鮮半島における売春業関連の誘拐・詐欺等の新聞記事(1930年代) 
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/30/


 結局、かれら「なかった」論派は、論難したい対象のしめす証拠に(史料批判をともなわない)なんくせをつけ、みんなウソばかりといいたてるが、史料批判による「なかった」論の立証には成功していない。かれらの おそらく無自覚な姿勢として、自派を正当化できそうな(あくまで主観的にだが)情報だけ「取捨選択」し、自派につごうのわるそうな議論・史料については、いっさい ふれない、というかたちで、自身と支持者の精神安定をはかっていると、推定できそうだ。もちろん、その際、うえのウェブページのように、生存者や支援者の心情をきずつけることができそうな、精一杯サディスティックで扇情的な表現が意識的にえらばれている。自身と支持者の精神安定のためには、さぞや機能的なのであろう。




【2012/11/24加筆】
 歴史修正主義に敢然とたちむかうブログ『Apes! Not Monkeys! はてな別館』には、以上のべたような、発言者のかかえる防衛機制とは別個に、賛同者=表現消費者の心理機構についても、論及している。
「[http://d.hatena.ne.jp/Apeman/searchdiary?word=%2A%5B%C6%EE%B5%FE%BB%F6%B7%EF%5D:title=[南京事件]] 「ありえない」論法と否定論存続の背景」である。
 そこには、つぎのような記述がある。

……ではなぜそうした否定論が存続し一定の支持を受けるのか。あるレベルでは理由は簡単です。二つの意味でそれが「心地よい」主張だからです。自国の軍隊が行なったとされる大虐殺は実はマボロシであったということが判明すれば嬉しい、というのはほぼ普遍的な感情でしょう……。これが一つ。いまなら、最近やたら羽振りのいい中国を叩けるというおまけもつくわけです。第二に、否定論は「わかりやすい」のです。学問的な「手続き」を無視すればいくらでも「わかりやすく」できるのです。典型的なのが、否定派が多用する「○○なはずがない(ありえない)」という論法です。例えば「原爆でも使わないと30万人もは殺せない」というものです。この手の論法は読者の先入見につけ込んで、一切事実を検証することなく結論へと至ることを可能にします。

 これは、表現者の心理メカニズムであるばかりでなく、受容者・賛同者層の心理をいいあてているものとおもわれる。まず、前者の過去の合理化=美化にもとづく自己正当化は、苦痛をさけるという方向性として、表現者・発信者と消費者・受容者の共通の真理をしめしているだろう点でわかりやすい。そして後者は、表現者・発信者と消費者・受容者の「経済原理」=知的怠慢を露呈させている。たとえば、実証史学のような地味で面倒な作業をおこなって、むくわれるかどうかわからない立論・読解といった過程をおわない。これは精神的に格段にラクである。科学的作業をふまえずデタラメな立論だからコストがかからず、同時に、被害者がわからの攻撃から逃避し慰安しあう、「同志」だけでのもりあがりが、えられる。いいかえれば、対費用効果が非常にたかいのである。しかも、大学教授等、専門家の地道な努力を、気楽で労力がいらない暴論で、全否定できたかのような演出ができるのだか、これほどの快感体験はないだろう。現に、大手の出版社からベストセラーなどとして刊行されるのだから、議論の受容者では、実証史学系よりも、ずっとキャンペーン上有力である。
 であるがゆえに、実証史学のにないてのうち、正義感にもえる少数部分しか、「参戦」してこないという、「かねもちケンカせず」の姿勢を史学関係者から、ひきだせるのだから、こういった乱暴な手法ほど、便利なものはない。右派政治家の暴言を、メディアがながしても、それが政治スキャンダルにならない国情ゆえ、それをみこした姿勢だろう。

 しかも、こういった、同国人へのモラル・ハラスメントは、イジメの現場同様、傍観者を大量発生させる。うえにあげた、実証史学関係者の「退避」「傍観」態勢なども、その典型例だが、それより、歴史修正主義の読者層以外の、無関心層の「傍観」が非常に意味があるとおもわれる。
 Apeman氏がブログ記事を引用しているので、その箇所をはりつける。

「南京否定論のプロパガンダが成功するわけ」を次のように分析しています。

                                                                                                      • -

自分も理性では肯定派がもっともな主張をしてるのはわかるんだけど,正直,肯定派が南京大虐殺について書く文章を読んでいると感情的な面で処理できないことが多い.
何で処理できないかを考えるために,身内で悪いことをした人間が出たときを考える(さらに,「落とし前つけろやー」と叫びながら扉をどんどんと叩いてくると).これに対してどう処理するかを考えると,
1.忘れる.ないしは,責任については無視する
2.悪いことなどしていないと主張する
3.悪いことをした人間は身内ではないと定義し直す
4.悪いことをした人間を,正当な方法で償わせる
5.悪いことをしたことは認めるが,やむにやまれぬ理由があってしたのだと信じる
6.悪いことをしたと認めて,連帯して責任を取る
という風に場合わけ出来ると思う.(他にもあると思うけど)で,(6)の合理化手法をとれる人間(非常に強い人間だと思いますが)は非常に限られるのではないかと思う.

                                                                                                      • -

 なるほど、歴史修正主義にたちむかう実証史家は、「6」にあてはまるわけであり、実証史学の本質を学校でおそわらない市民は、1〜5という、知的怠慢にとどまることが大半だろう。歴史修正主義者たちは、自分たちの卑劣な知的怠慢を、膨大な傍観者としての一般市民を間接的にみかたにつけられるわけだから、「無敵」である(日本国内で絶叫しているかぎりだが)。
 冷静な中高年の研究者はもちろん、これから就職をはたしたい わかて研究者も、以上のような構図=困難な火中の栗をひろうという、ハイリスク行動はさけたいだろう。歴史修正主義の国内での横行は、以上のような、概要として記述できそうな気がする。

 
 Apeman氏のもうひとつの指摘(南京事件否定論と本質主義)も非常に興味ぶかい。

「あった」派にとって南京事件は国家の問題、日本軍の問題、(現時点であまり強調されていないが)南京戦に参加した個々人の問題、そして人類全体の問題であるが、決して「民族」の問題ではない。南京事件を日本人の「民族性」によって説明しようとする「あった」派を私はただの一人も知らない。これは他の戦争犯罪についても同様である。ソンミ村の虐殺は米軍の犯罪、カリー中尉と彼が率いた中隊の犯罪、アメリカ政府の犯罪ではあっても、「アメリカ民族」の犯罪ではない。これを通州事件や「(南京事件の)捏造」なるものに関する否定論者の態度と対比してもらいたい。事件は冀東防共自治政府の保安隊によって起こされたのだがそんなことはおかまいなし。30万人説は国民党政府の戦争裁判によってうちだされた数字なのだが、国民党だろうが中共だろうが同じ。全部「中国人」の問題だ、というわけである。彼らにとって、もし南京事件が本当にあったのなら、それは日本民族の残虐性を証しするものになってしまうから、どんな根拠を示されても認めるわけにいかない、ということであろう。

要するに否定論者は、自分たちの本質主義を勝手にこちらに投影して、「あった」派は日本民族を攻撃している! と思い込んでいるわけである。中国政府ですら「悪いのは軍国主義者で、人民は被害者」を公式見解としているというのに…。

 これは重要な指摘である。「なかった」論者は、自己意識=自尊心が、ナショナリズムを介して、当時の日本政府・皇軍の尊厳とユチャクしてしまっている。だから、日本軍の汚辱は自分自身の汚辱になってしまうのだ。それゆえ、絶対に非をみとめられない。過去の全否定ないし部分否定による知的逃避は、かくして必然的に発生する。当然、(無意識に感じるだろう)いたいところをついてくる、東アジア・東南アジアの言論や、日本の左派勢力などの立論は、全部みとめることができなくなる。そして、その否定の論理は、自分たち自身が侮辱されているという本質主義という病理(アレルギー反応)なのだ。かれらは、東アジア・東南アジアや国内の過去への指弾が、自分たちを全否定しているという拒絶反応しかしめせない。かれらが、一見、こわだかにマッチョにふるまいながら、その実、虚勢をはっているような悲壮感をたたえているのは、本質主義的おもいこみを、批判者に投影し、みずから自分を被害者的に位置づけるという、自縄自縛なのであり、そこでのヒステリックな反応は、マッチポンプのようなこっけいさをはらんでいるのである。
 ひょっとすると、アメリカ議会で侮辱をうけた 安倍もと首相のような事態が自分たちにもおきうるということを、「なかった」論者とその受容者たちの一部は自覚しているのかもしれない。自分たちが「知的ガラパゴス島民」であり、一部の特殊な親日派以外からは、侮蔑されるような孤立した信念(信仰)のもちぬしであり、国内でしか通用しないという現実を、うすうすきづいているということである。もし、そうであれば、かれらは、内心(無意識レベルで)不安で不安でしかたがないだろうから、それこそ反復神経症のように、右翼的暴言(ヘイトスピーチ)を発信しつづける宿命をかかえているのかもしれない。かれらが、一貫して、自称愛国者を演じ、「なかった」論への批判者を「反日分子」「自虐史観」などと罵倒するかたちをとるのは、かれら自身が、到底不動の自信などもちえず、おびえているからではないだろうか。そうであれば、石原都知事などの積年の知性・品性が欠落したヘイトスピーチの背景がすこしわかるような気がする。要するに「内弁慶」なのだ。
 それにしては、議論をよびこみかねないような、「意見広告」などハイリスクな行為をくりかえすのは、解せないのだが。

 ちなみに、Apeman氏による、南京大虐殺関連の記事は、一覧表になっている。
主要エントリリスト(南京事件関連)


【かきかけ】